kikuyon’s blog 日日草

このブログは、私の日常や気づきについて書いています。 日日草は新しい花を次々と咲かせ、花を休むことがありません。 花言葉は、友情、優しい記憶、楽しい思い出、愛する人を励ます等です。

和が全てではないと思うのだけど

暑い日本の夏をさらに熱くしている、パリオリンピックの前半戦が終わりました。日本は、一点に泣かされた競技が多かった印象です。一点の差でメダルに手が届くか否か、とても大きな分かれ目です。そのため、今回のオリンピックでは審判の判定に対しての物議が大きく醸されています。人間のやることですし、資格を有する審判員がいない競技も多いため、ある程度はしかたないことですが、どうしても開催国有利と見られがちです。次回はきっと、大幅にAIなどを活用した電子の目が活躍するのでしょうね。それは、つまらないと言えばつまらないかもしれませんし、電子的不正にもケアしなければならなくなってきます。また、抗議することで判定が覆るケースも多く見られました。抗議することが有料!というのもあり驚きます。ディベートが当たり前の国と、黙って礼節を守る国との差は、今後広がるばかりかもしれません。

日本発祥の柔道などは、もはやJUDOになってしまった、と嘆く向きが多いのも事実です。ですが、フェンシングはフランスが発祥のスポーツで、そこで日本は堂々と金や銀を取らせて頂いています。オリジナルを作り出した国へのリスペクトは大切ですが、そのオリジナルをグローバルに拡散しようとすれば、オリジナルの変化を許容し、一緒に変わっていかなければなりません。変えようとしないのなら、いち地域のいちマイナースポーツに甘んじるしかない、と思います。曰く、日本が強くなった種目はルールが不利な方に改正される、と嘆く方もいますが、それを含めてそれがスポーツというものではないかしら。

阿部兄弟の詩さんの号泣事件について、未だにいろいろな意見が出ています。ただ、ご本人が謝罪をされましたので、もうお終いって感じでいいと思います。あるテレビの年配の方は、スポーツ選手としてなっていない、さっさと次の試合のために通路を明けなければいけない、コーチの対応も悪い、とコメントされました。確かに正論でしょう。スポーツ選手なのだから、会場を引き上げるまでが試合であり、最後まで礼節を守るのが当然です。でも現実はそうはできなかった。湧き上がる感情を抑えきれなかった。これまで日本では、そういう気持ちを押し殺してでも、礼節を守ることが美徳とされてきました。和を以って尊し、団体行動に乱れは禁物です。個人の感情より団体が優先されました。

でも、ひょっとして時代は変わってきていませんか。悔しければ、一旦立ち止まって泣いてもいいのではないですか。あの座り込みでタイムスケジュールが狂わされた、と抗議した関係者がいたのでしょうか。どうも、そこらへんがザ・オールド日本人?と感じてしまいます。甲子園で敗退したチームがベンチ前の砂をすくっていると、さっさと退出しなさい、と語る人たちと同じ空気を感じてしまいます。

今の時代、スポーツは軍事訓練ではありません。少しぐらい和を乱しても、よく頑張ったね、一旦立ち止まろう、大いに泣いて、すっきりと忘れよう、と言ってあげてはだめでしょうか。全体の進行からすれば、微々たる時間でしかないのですから。

そうやって皆でスポーツに対する考え方を変えていかないと、「敗戦は自分の責任です、チームのみんなに申し訳ない」と、一人で全責任を背負いこむような方が続いてしまいます。決してそんなことはない、個人が責任を背負いこむことはない、と周りから変わっていかなければ、さらに上への成長ができないのでは、と感じてしまいます。

そういう意味で、パリオリンピックが、スポーツに対する考え方が変わるきっかけになって欲しいな、と思います。